とんでもない遺品整理
1年前、一人暮らしの父が他界し、実家一軒丸ごと片付けました。
いわゆる遺品整理です。
来る日も来る日も分別作業を繰り返し、5LDKの日本家屋と庭にあるすべての物を一人で片付けました。
父は比較的綺麗好きでしたので、処分は大したことないだろうと高をくくっていましたが、いざ取り掛かってみるとなかなか大変で、怒涛の作業は半年間かかりました。
今回は私がどうやって整理し、最終的に何が残ったのかを書いてみます。
遺品整理の分類
まず、遺品を「処分するもの」「残すもの」の二つに分けました。
「処分するもの」は、「自分で処分できるもの」は自分で処分し、それ以外は「業者に処分を頼むもの」に分けました。
「残すもの」は、「売る」「譲る」「寄付」「手元に残す(東京に送る)」の4つに分けました。
- 自分で処分
- 業者に処分を依頼
- 売る
- 譲る
- 寄付
- 残す(東京に送るもの)
1. 自分で処分
地域の自治体ルールに従い、11種類に分別して処分しました。
各々指定されたゴミ袋があり、収集日に合わせてそこら中にあるものをかき集めて出しました。
中には2ヵ月に一回というものもあり、回収までに時間のかかったものもあります。
粗大ゴミは月に一回、指定のゴミ集積所に運搬します。
点数制限はなかったので毎回山ほど出しました。
ご近所の方や集荷作業に当たられた方、あの時はごめんなさい。
粗大ゴミは基本的に1点200円、約15万円ほどかかりました。
ゴミ出しは簡単な作業には違いないのですが、なかなかどうしてこれが本当に厄介で想像以上に大変でした。
実家は昭和の家だからなのか地方だからなのか、理由はわかりませんが奥行きのある押入れが多いのです。
増築でさらに納戸を作り、収納家具も活用し、とにかく物が多い。
物のない時代を生きてきた昭和一桁生まれは物が捨てられないのです。
父は綺麗好きと思っていたものの、それは物が見えなかった(隠していた?)だけで、押入れはぎゅうぎゅう。
まさに物を押して入れてあったわけです。
小引き出しには取れたボタン、とりあえず仕舞ったヘアピン、虫ピン、余ったネジ、使用済みの釘、工具、画鋲、ペン、使いかけの鉛筆、布切れ、変色した糸、折れた針など、ありとあらゆる細々したものが放り込まれ、生活の痕跡が残されておりました。
どの引き出しもごちゃごちゃとしていて、ラジオペンチ片手に片付けました。
面倒と思いつつも、それは両親が生きてきた証。
日曜大工はお手の物だった父、裁縫が得意だった母が偲ばれて、一つひとつの物が愛おしく、つい手が止まってしまうこともしばしば。
それと、何かを捨てるたび、父の「まだ使えるのに、それも捨てるんかー」という声がする気がして、思い切って処分することができませんでした。
2. 業者に処分を依頼
大物家具、カーペット、家電品はリサイクル業者に依頼しました。
買取り可能、無料引取り、有料引取りの3つに分かれ、処分代は約18万円かかりました。
3. 売る
売れるかどうか、価値の有り無しは自分では判断できないので、買取業者に査定依頼しました。
新古品である引出物や飾り物、掛け軸、茶道具、骨とう品、絵画、古銭、切手、服飾品、着物、ブランド食器などです。
複数の買取業者に査定をお願いしましたが、それぞれ会社の得意不得意もあるのでしょう、同じ品物であっても買取価格は異なりました。
業者の中には自分たちが欲しいものだけサッと持ち帰り、「ほかはゴミですね」と言い放ち、勝手に押入れを開けて何か持ち帰れそうな物がないか物色した業者もいました。
まるでハイエナのようだとゾッとしたのを覚えています。
そのとき「ゴミ」と言われた遺品を気持ちよく買い取ってくれた業者さんもあるので、そんな言葉を鵜吞みにしてはいけません。
一社だけで諦めず、複数の業者に査定依頼しましょう。
感じの良い業者さんもいます。
遺品を一つひとつ丁寧に扱ってくださる態度に感激して、父と母の愛用品(眼鏡、財布、時計、入れ歯、ネクタイピン、指輪など)もお願いしました。
思っていた以上の買取価格をつけてくれたことも嬉しく思いました。
その業者さんの車に父と母の思い出の品を積み終え、担当者さんから「すべて大切に扱わせていただきます。わたくし達の手で蘇らせます」と言われたとき、両親も喜んでくれているような気がして、思わず涙がこぼれました。
車が車庫から出るとき、まるで霊きゅう車が出棺するときのような錯覚を覚え、車が見えなくなるまで頭を下げ見送りました。
良い業者さんに出会えて良かったと心から思えました。
4. 譲る
いわゆる形見分けは、父の友人知人、親せきが実家に来られた際に欲しいものを持ち帰ってもらいました。
5. 寄付
形見分けで残ったもの、買取業者が残していったものは寄付しました。
捨てるには惜しいし、かといって売れないし、自分では使わない物はまだまだありました。
例えば大人用紙おむつ、シーツ、タオル、毛布、線香、ネクタイなどです。
ネクタイは中古品といってしまえばそれまでですが、クリーニング済みでしたし、そのまま処分にするには抵抗がありました。
そこでインターネットで「ネクタイ 寄付」と検索したところ、ちゃんと受入先が見つかりました。
それを機に、「〇〇 寄付」と検索し、20箱以上いろいろなところへ寄付をしました。
6. 残す(東京に送る)
父と母の思い出品はすべて残しておきたいのが正直な気持ちでした。
しかし、そのすべてを残すわけにはいきません。
この選別作業は辛いものでした。
処分に困ったのはアルバム、父の描いた水彩画、日記や手帳など記録的なものと、「これ使えそう、使うかも」と欲の出てしまった物たちです。
最終的に10箱分残りました。
最後まで迷った物は
ここまで書いておいて言うのはなんですが、実は最後まで迷いに迷ったのは実家をどうするかでした。
家を残すのか売るのか、残すならどうする? 売るならどうする? 複数の不動産屋さんに相談したものの最善は何かを決断できず、ずいぶん迷いました。
それでも売却すると覚悟を決めてからは腹が据わり、家の片付けも加速しました。
最終退出日はすっきりした気持ちで家を明け渡すことができました。
すっからかんになった家を見回したとき、「よう片付けたのう」と笑いながら言う父の声が聞こえた気がしました。
一人だからできた
片付けは選択の連続です。
私の場合、相続人は一人でしたから処分は私一人の決断で済んだことは幸いでした。
だからこそ遺品整理は一人でできた作業です。
それでもすべてを片付けるのに半年間かかりました。
相続人が複数いれば、その分判断に時間がかかり大変なのは容易に想像できます。
だから私のやってきた整理方法がすべての人に当てはまるとは思いません。
相続人全員が同時に集まったうえで片付ける方法が取れない方がほとんどでしょう。
しかし、どこかで決断をしなければいけない時が来ます。
最高にして最大の物は
実家の片付けを振り返ってみて思うのは、物の分別は大変な作業でもあり、物との決別は痛みを伴う作業でもありましたが、一つひとつ確認しながらできたことはとても良かったと思います。
確かに思い出の品という物質を手放すことに痛みはありましたが、多くの物を手放して気付いたのは、物を手放しても、実家を手放しても、思い出は失われないということです。
なぜなら、何よりも大切なものは物ではなく、私という人間そのもの。
私という存在が父と母からもらった最高にして最大の贈り物だと気付いたからです。
やっぱり、物より思い出
東京に送った10箱には後日談があります。
吟味を重ねて残した10箱はいざ東京で開梱するとセンチメンタルな思い出は薄れ、どれもこれも色褪せて見えました。
結局、重要書類と数枚の写真を残すのみで、ほかは寄付品となりました。
欲にまみれていろいろ持ち帰りましたが、それがなくてもいままで生活できたのだから、どれもこれも必要のない物でした。
捨てられないという思い込みを捨てることができたのです。
使い古された言葉ではありますが、「物より思い出」というのは名言だと、遺品整理を終えた私は思うのです。
いま私の机の上には、にっこり微笑んでいる両親の写真が飾られています。
トランスフォーマーなら
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